幻の兵隊投稿雑誌 |
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【雑誌『兵隊』とは】 |
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中身を紹介
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推薦文を読む 木村尚三郎(静岡文化芸術大学学長) 小沢昭一(俳優) 鶴見俊輔(哲学者) 石田一郎(「兵隊」編集者) 〈解題〉大濱徹也 「戦場の驚くべき自由」・・・・・ 東京大学名誉教授・静岡文化芸術大学学長 木村尚三郎 三十六冊からなる「兵隊」を手にして、「ウーム」と唸りつづけている。南支派遣軍報道部が編集した、兵隊向けの軍の冊子である。もちろん軍の検閲はしない方針だったらしいが、昭和十四年から十九年までの、戦争末期に近いにもかかわらず、ある意味で現代以上の自由を雑誌から感じる。ユーモアもある。美しさの感覚もある。それが、何よりの驚きである。 たとえば終戦の一年前、昭和十九年一月刊行の第三五号には、自分たち日本兵が中国への「侵入者」であるという表現が、堂々と使われている(「妻へ」山田良一、三五号一三頁)。日本軍に押し入られた家の、中国の一少年との交惰を綴ったものがある。現代日本の主だった新聞のどれが、アメリカ軍を「イラクヘの侵入者」と書くであろうか。「兵隊」を読んでいると、ある意味で戦時中よりも不自由な、現代日本の姿が浮かび上がってくる。(三五号四六頁「盟友に愬ふ」某中国師長) 同じ号に、中国人による長文の日本人批判が大々的に掲載されていたのも、大きな驚きであった。「中国を人間とするなら、英米はその腕を切り落す様なひどいことをしますけれども、個人としては、日本人の様に(中国人の生活慣習にまで触れて)小さく細く、あちこちと皮膚を針でつついて、絶えず苦痛を味はす様なことはしません」。 自分を省み、過去と現在の日本の実像を考え直す上での、貴重な資料である。これを発掘した刀水書房社長桑原迪也氏に、深く敬意を表したい。 「へえ、『兵隊』なんて雑誌?」・・・・俳優 小沢昭一 ちかごろ「ヘェ」ってのが流行ってるようですが、兵隊さんが戦場で投稿していた雑誌があったとは「100へぇ」です。中支派遣軍報道部刊の雑誌『兵隊』は、火野葦平などの編集で、昭和十四年から十九年ごろまで広東で刊行されていたとのこと。昔、男は二十歳になれば徴兵でした。私の父は、日中戦争の前のシベリア出兵で兵隊に、軍国少年だった私も太平洋戦争末期、半年ほど海軍の学校に身を置きましたが、戦争は金輸際コリゴリです。でも、身に泌みて懲りている人間も今や少数派となりました。かつての日中戦争とはどういうものだったのか。反戦思想など持つべくもないフツウの兵隊が、何を考え何を言いたかったのか。殺し殺されている間に、妻子を恩い故郷をしのぷという、そんな日常のなかでの人間の心の中はどうだったのか。この『兵隊』から察知できるのです。短歌や俳句の投稿も、占領地での中国人との交流の報告なども載っておりますが、例えば、敵の少年兵を銃殺して、さらに銃剣で刺す。しかし死にきれないで、パクパクさせている口に水筒の水を分け与えてやった、というような、戦争の狂気をまざまざと知ることの出来る「敵少年兵」なる一文も掲載されてありまして、「へぇ」どころではなくなるのです。また、戦争が始まるのでしょうか。いえ、もう始まりかけているようですが、そんな今、『兵隊』が復刻刊行されることの意義は極めて大きいと思われます。 「かわり身の早い私たち自身に問う」・・・・哲学者 鶴見俊輔 今、地上にいる人の中で、日本人は、記憶のみじかいほうだろう。テレビが時計かわりになり、そのとき、そのときのニュースは、頭にのこる。しかし、一年前に何がおこったかは頭にない。六〇年前の、さらに一五年問にわたる戦争下の毎日のことは、頭にない。 この現代日本に、少しでも、あの戦争のことを、のこれば、と私は、思う。 戦争否定という言葉だけが心にあるよりも、戦争の実情はこういうものであったのだろうという、想像力をはたらかせてほしい。そのひとつのきっかけとなるものが『兵隊』の復刻である。 あの戦争の當時、「百年戦争を勝ちぬく」という掛け声が、となえられた。新聞の見だしに何度も、その掛け声が、大きな活字で出た。 現在、平成一四年は、その百年戦争の中で七四年目にあたり、百年戦争の終わりまでにはまだ二六年のこっている。そういう想像の中に、自分自身をおいてみることが、今の日本人にとって必要だと私は思う。当時の日本人の想像力の延長線上に私たちとおいてみては、どうだろう。 「雑誌『兵隊』の編集者として」・・・・東方学会顧問・当時『兵隊』の編集者 石田一郎 昭和14(1939)年、上野の美術学校を卒業して25歳の私は、日支事変に補充兵として応召、無宰の隊列に生きる一兵士の道を歩んだ。十五年戦争を歴史の運命とした世代の若者にとって、戦場へと一筋に敷かれたそれ以外に選ぶ道はなかった。 兵隊は戦力の員数として戦う。並んで戦って倒れ死ぬものと生き残るものとの差は、運命の逃れがたい落差としかいいようがないが、雑誌『兵隊』(南支派遣軍報道部刊)を編集するため離れた私の原隊は、南方戦線ニューギニアヘ転進し、8OO人が敗戦時八十余人しか帰らなかった。そして生き残った私に、人間普遍の悲しみを生きるほか、どのような生き方があったろうか。 戦場にあって、兵土らは血を流しつつ筆をとり、一人一人の肉体の戦史であり精神の戦史として、雑誌『兵隊』に語りかけた。かつて人間回帰の願いによって綴られ、いま六〇年の歳月を経て色あせたこの『兵隊』の紙面に、現代のヒトは何を見るであろうか。さらに言えば、戦場にあって、まったく検閲のない無制限、白由執筆、自由編集の雑誌として『兵隊』が存在しえたこと、それをなんと思うであろうか? なお、『兵隊』に散見するが(19号14頁)、部隊が開設した日本語学校は、やがて宣伝・宣撫にとらわれない無作為な人問交流を生じたし、農民だった兵士は厩の踏み藁で堆肥をつくり、米の二毛作を成功させ、日・支農民が喜びを共にした(22号10頁)など、国家間の政治の非情に耐える民衆の姿が見えていたことも忘れられない。 ページのTOPへ |
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