単行本 
不敗の農民運動家矢後嘉蔵 不敗の農民運動家
矢後嘉蔵
生涯と事績

北山郁子編
解題 岩本由輝
仲井 富


定価: 本体7000円+税
2008年7月刊
ISBN978-4-88708-362-2
A5箱 520頁

在庫あり
*土着の思想〈永小作〉で闘った農民運動家*
大正・昭和〜戦後期を通じての富山の農民運動家。戦前にあって合法運動に徹して、江戸期以来の耕作権重視の慣行〈永小作〉に則り、裁判で地主と闘い農民を守った。不敗の農民運動家と称せられた

〔本書の概略〕
「第T部 矢後嘉蔵の生涯と事績」は、矢後が残した原稿・矢後からの聞き書き・資料などに基づき、矢後の生涯とその事績を時代順に辿る。「第U部 矢後嘉蔵年譜」では、戦争の時代を背景に矢後が如何に闘ったかが読み取れる。「第V部 小作争議訴訟関係資料抜粋」は訴訟関係資料の影印(124頁)で、弁護士から印鑑を預かって矢後自身が書いた訴状なども含む。矢後の運動の方法が手に取るように読み解ける。「解題」は経済史の岩本由輝東北学院大学教授の“大正・昭和農民運動史”と言えるような大作と、仲井富 元社会党本部青年部長による“運動家の立場から見た矢後論”で、2編合わせて90頁に及ぶ。「あとがき」は編者で矢後の長女北山郁子医師により、本書が刊行されるまでの、長い道のりが語られる
【主要目次】
口 絵 矢後嘉蔵の生涯と事績/矢後嘉蔵永小作関係証言調書
第T部 矢後嘉蔵の生涯と事績
 1 出 自
 2 倉垣小学校の思い出(大正二年卒業)
 3 富山に帰る―萩原正清に会う
 4 〈資料〉富山高校に「社研」創設
 5 普選の時代―政党運動の始まり
 6 富山の農民運動―二人の先覚者
 7 戦前富山県労働組合運動の回想
 8 富山労働農民党と労働運動
 9 普選と地下共産党の時代
10 福井県芦原騒擾事件
11 婦負郡朝日村友坂立禁事件
12 補償米、帽子米撤廃要求と婦負郡農民の全農参加
13 入善小作立禁事件
14 千里竹槍事件
15 「補償米とは」
16 小作争議とは一体どういう事をするのですか?
17 裁判のやり方―『ノート』より
18 富山のメーデー
19 檢 束―朝鮮人のおかみさん・飲み友達と
20 西砺波郡正得村五社農民組合不成立
21 逃亡記―富山県共産党事件
22 共産党との関係について―合法と非合法
23 西砺波郡福田村(現高岡)、農民組合を作る
24 下新川郡宮崎村苗の植替え小作争議
25 城端町北野・井口村減祖米復活要求
26 小作調停調書改竄事件
27 富山県農民組合運動の足跡
28 農民組合のこと
29 大正・昭和、四〇年の回想
30 農民運動と家族の生活
31 農民運動と革命運動
32 『農民組合五十年史』への書き込み
33 富山の小作争議無敗の記録
34 一向一揆の伝統と農民運動
35 戦争の時代
36 敗戦と戦後と―左翼と資本家と
37 社会主義政党全国代表者会議と富山の労働運動
38 立山重工争議メモ
39 戦前・戦後富山労働運動事情
40 富山県社会党結成のころ
41 総選挙(昭和一二年四月、二二年四月)
42 強権米反対闘争・税金闘争
43 インフレ時代
44 片山内閣と社会党の人びと
45 農民運動五〇年―日農創立五〇周年記念祭昭和四七年四月一○日
 付 録
 @ 真実のために―矢後から友人への手紙(未定稿)
 A 「矢後に関する内山本の誤りについて」―松島治重より矢後の娘北山郁子への来信
 B 追 想―千里竹槍事件
 C 雪がふる
 D 農民運動家の妻は語る
 E 兄のこと―妹・杉林美沙の手記
第U部 矢後嘉蔵年譜
第V部 小作争議訴訟関係資料抜粋
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  解題一 農民運動家矢後嘉蔵の戦前・戦後  (元社会党本部青年部長)仲井 富
  解題二 矢後嘉蔵の土着の思想と「永小作権」   (東北学院大学教授)岩本由輝
  あとがき ―娘から見た矢後嘉蔵                        北山郁子
【書 評】

NPO野菜と文化のフォーラム理事長  今野 聰

 富山県の社会運動といえば、1918(大正7)年の「米騒動」である。この年7月末、魚津港の主婦による「米よこせ」という突発的決起が一挙に全国に波及した民衆運動である。それに比すと、富山県農民運動の戦前・戦後史はやや陰が薄い。そういう印象を打ち破る歴史的証言がこの本である。富山県農民運動の現場で戦った矢後嘉蔵(かぞう)(1900〜1984)の全生涯史である。口絵を見よう。1972年4月10日、日農創立50周年記念で表彰された記念の揮毫―「よくも生き伸びたるかな」がある。編者は長女北山郁子氏(養子改姓)。父の元を離れて、愛知県渥美半島で暮らす。1970年中部電力渥美火力発電所の増設問題に端を発した住民運動に参加する。その中で、父の農民運動との共通点と意義を探し当てたというのだから、並ではない。橘進氏(住民運動の仲間、1983年急逝58歳)と仲井富氏(元社会党本部青年部長)による聞き書き、膨大な裁判記録、年譜、解題(岩本、仲井)などによって構成されている。散逸した資料も多いという。だが510頁、圧巻である。まずは矢後嘉蔵略年譜を本書によって素描しておこう。

1900年 誕生、富山県婦負(ねい)郡倉垣村荒屋2292番地
      (現在、富山市四方荒屋(よかたあらや))
1913年 北海道寿都(すつつ)で海産物問屋を営む父へ手伝いに行く
1918年 魚津町で「米騒動」
1919年 ウイリアム・モリス『夢の世界』を読む、生涯の思想基盤に
1922年 美代恵と結婚
1926年 富山高等学校の井汲卓一と知り、ここから農民運動家萩原正清と出会う 
      長女郁子誕生
1927年 労働農民党富山支部連合会を結成、執行委員長
1928年 福井県で芦原事件。公務執行妨害で6カ月未決拘留
1931年 全国農民組合総本部への批判起こる
      富山県も11府県と同調。富山県共産党事件で大量検挙、矢後逮捕を免れる
1938年 杉山元次郎ら結成の大日本農民組合に参加、
      大日本農民組合富山県連合会になる
1940年 大日本農民組合解散。小作争議・立野事件に大審院の判決、永小作権を認める
1945年 日本社会党の結成準備会に参加
1946年 日本農民組合富山県連合会を結成。全県1区の選挙で惜敗
1947年 第23回総選挙に1区から当選、県下初の革新・社会党議席
      日本社会党富山県支部連合会会長
1952年 社会党左派支持表明
1953年 衆議院選挙に無所属立候補し、落選。県内農民団体統一、初代会長に就任
1963年 日本社会党富山県本部の顧問制度で顧問就任
1984年 84歳、愛知県渥美病院で老衰没

 以下、本書の特徴を触れよう。
 第1は、富山県農民運動の戦前・戦後を、現場から赤裸々に証言したことだろう。とりわけ1940年侵略戦争の真っ盛りに、小作農民の永小作権を争う合法法廷闘争に勝利したことの意義は大きい。戦前農民運動は非合法闘争一点張りから戦争体制協力への転換と短絡した歴史記述がいかに間違いか、改めて知ることになった。
 第2に、離合集散が激しい戦前農民運動は複雑である。とりわけ全国農民組合全国会議派(全農全会派)が結成された富山県で、矢後は敢えて会派を同じにしながらも、合法闘争にこだわりつづけた軌跡は教訓的である。岩本氏の解題も多くこの問題を扱う。論争点でもあろう。ついでに、多くの証言によって、矢後が石原莞爾の東亜連盟同志会に入会したとする既刊運動史を事実無根とした。石原の生地山形県庄内地方との違いが鮮明である。
 第3に、戦後運動について。矢後は代議士1期後、1953年総選挙で落選、実質指導力は尽きたといわれる。一方全国一律米1割減反に反対する農民運動は、1969年2月27日東京大手町農協ビルで宮脇朝男全中会長を相手に、大衆団交となった。私自身が農協労働運動で、その現場にいた。富山県など米単作地帯農民運動を現場で見た瞬間である。こうした奮闘が触れられないのは止むを得ない。
 第4に、現代の農民運動の展望である。私は香川県琴平町で開催された全日農西日本研究集会(06.2.17〜18)に参加した。そこで「新たな参加型農村協働運動を探る」を報告したが、富山県発「米騒動」しか触れられなかった。現実の富山県農民運動は、有機農業を含め、現実の市民運動との関係を深めつつある。北山郁子編者の問題提起もそこにある。
 最後につけ加える。清野力二・山形農民連盟会長が戦後すぐの米占領政策に触れる。当時発刊の『思想の科学』誌から、ポール・スウイージの資本主義発達論をめぐる学者論争を学んだという(本紙08年8月25日付け)。矢後もまた、昭和元年に井汲卓一、萩原正清と交流、学んだ。現場闘争と学問追求こそ共通するものがある。

『不敗の農民運動家矢後嘉蔵』― 図書新聞2008.10.18より、評者:南雲道雄

土着、独自の運動を貫いた草莽の闘士―矢後嘉蔵の人柄と肉声が聞こえてくる―農民運動家矢後嘉蔵、といっても知る人ぞ知るで、関係者以外、その名を記憶する人はごくわずかと思われる。
1930年代から40年代、いわゆる戦中・戦後にまたがる激動の「昭和」を、農民運動一筋に生きた人物であった。本書は、その84年の生涯と運動の事績を跡付ける詳細な伝記的資料の集積である。主な活動拠点が富山県なので、異色ですぐれた組織者、活動家であったにもかかわらず、一般には知られにくい面があったと考えられる。
・・・中略・・・
一口に農民闘争、小作争議とは言っても、様々であって、複雑な形態で生起する事は、第二部の訴訟関係資料でもうかがえる。合法で裁判に立ち向かうとすれば、小作農民の現実や状況の正確な把握はもちろん、検察や裁判官に劣らぬ現実認識と知識、勇気が必要であろう。その好例として目を引いたのが<永小作権>確保の訴訟。昭和6年、33歳のとき、小作人側の証人として、法廷で述べた調書の内容。永小作権保護の慣行で、地主は、小作人に不都合がない限り、同一小作人に永久に耕作させる、というもの。矢後は従来慣行の実質を武器とし、この訴訟を勝ちとった。この例に見られるように、その後の矢後の運動とたたかい方は独特で、当時の“全農本部”の方針とは異なる地域と風土に根ざした活動を展開したものと思われる。(以下略)

『大原社会問題研究所雑誌』2009.6号 No.608より、評者:横関 至氏

本書は,戦前・戦中・戦後を通して富山県農民運動の指導者であった矢後嘉蔵(1900年生まれ,1984年死去)の生涯の歩みをまとめたものである。富山県での農民運動は永小作権との関連や全農全会派の拠点組織の存在という点から異彩を放っており,その歴史的分析は久しく待たれていた。待望の書物の誕生である。(略)

1 本書の概要
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2 従来の研究での矢後評価
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3 疑問点
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4 構成上の幾つかの問題と要望点
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5 岩本由輝氏の解題について
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おわりに

幾つかの注文を書き連ねて来たが,本書の聞き取りと資料は矢後嘉蔵の粘り強く合法的な活動を雄弁に物語っており,本書は極めて貴重な書物である。(略)矢後嘉蔵の名は,農民組合解散後も裁判闘争を継続し永小作権を認める判決をださせた農民運動指導者として,合法場面で活動しつつ非合法活動の人々を支援し敗戦直後の時期の富山県での社会党と共産党の共同行動の基礎を作り出した人物として,富山県の社会党を代表する政治家として,後世に残されていくことであろう。妻や子供から尊敬されず死後には関連資料も捨てられ忘却されたままになってしまう運動家が多いなか,娘さんによってこうした書物を作ってもらえた矢後嘉蔵は幸せである。(以下略)

『史学雑誌』第118編第6号「新刊紹介」より (評者:大豆生田 稔氏)

本書は,富山県の農民運動指導者矢後嘉蔵(1900−1984)の足跡を浮き彫りにしたもので,自身の著作や原稿,裁判書類,インタビュー記事などにより,1920年代半ばから50年代にいたる活動をえがいている。(略)こうして1920年代半ばから,富山での精力的な活動がはじまる。(略)小作争議を裁判闘争戦術で指導し,30年には立入禁止,土地取上などの事件を闘った。その経緯は,回想や自ら残した書類などによって生き生きと語られ興味深い。(略)大審院まですすむ裁判闘争は,40年にようやく結審したが,いずれも永小作権の認容という点では「勝訴」であった。「不敗の農民運動家」という本書のタイトルは,このことによる。(以下略)

「富山地方の思想風土―本書を世に問う―」


@ 自然発生的な米騒動に見られるような具体性、運動性と変革性
A 永小作に見られるような土着性と保守性
B 一向一揆に現れるような変革性


 矢後さんは富山にあって早くより農民運動に入った。大正期萩原正清に会って、その思想に共感し、終世これに追従した。
 萩原は貧農に生まれ、荒地を開墾して自立し、やがては農民組合を設立し、村長にもなる。矢後が萩原に会ったのは大正14年、このときすでに萩原は若い学生らの過激な運動を忌避していた。近代合理主義の左翼思想のそれには、大正11年、杉山元治郎の日本農民組合の結成大会に参加しながら加盟しなかったように、萩原は結局最後まで同調しなかった。西欧?的な合理主義と土着のセンスとは相容れない部分があったのであろう。
 矢後さんも「富山には何か特殊な社会的風土、思想的風土がある」(本書152頁)といっている。米騒動も自然発生的で非常に長期間に及び、ある富山の金持は米騒動の自慢をしていたという。土着の思想的背景があって永続するマルキシズムでもキリスト教でもない、普通の近代合理主義の思想運動ではない土着の思想なのであろう。
 富山では、加賀藩以来、藩・肝煎り・百姓らの取り分にはきまりがあり、小作料全体としては他地方と比べてむしろ低かったし、小作人に不都合な行動がなければ、その土地を同一小作人に永久に耕作させる「永小作」が暗黙のうちに成立していた。一方収穫量は全国最高で、また面積は旧藩時代の測量のままで一町二反に及び、小作にとってはゆとりのある大まかなものであった。
 明治時代に入り、地主の権力は強くはなく、小作農は、前代以来、「地主は農民の世話役である」と考える者もあった。そして農民はその耕作する田地に「永久に耕作権をもっている」という考え方をもっている者もあり、耕作権が売買されてよいと考える者もいた(永小作)。
 杉山元治郎の土着と矢後のそれとはついに噛み合わなかった。お互いに、全く無視している。無視というより反発であろうが、それが何故であるかは、取り敢えず文化的に異質なものといっておく。それは例えば、「風の盆」おわらを保存する何かであり、岡本一平と太郎親子の相反の場合と同じである。おそらくは、論理的ではない“土着”に何らかの異質な点があるのであろう。
                                                [編集部]
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