刀水10号
[座談会] タイは今?―『タイ国』の著者を囲んで
チュラーロンコーン大学教授 パースック・ポンパイチット
著述家・タイ研究者 クリス・ベーカー
東北学院大学教授 岩本 由輝
東北学院大学教授 野崎 明
日本大学准教授 サイモン・ジェイムス・バイスウェイ
目次
T タクシン政権成立以後のタイ国
U タイ社会における仏教とアニミズムとの関係について
V タイ国における女性の地位について
W タイ前近代のサクディナー制と日本前近代の石高制の比較、ほか
編集部 本日は皆様お忙しいところお出ましいただきましてありがとうございます。ではこれから“Thailand-Economy
and Politics”(日本語訳『タイ国−近現代の経済と政治』)の著者パースック・ポンパイチット先生とクリス・ベーカー先生をお迎えしての座談会を始めさせていただきたいと思います。このご本『タイ国』はちょうどタクシン(第二次)政権の途中で終わってるわけですけれども、そのあたりのところをまず岩本先生にご発言いただくことから始めさせていただきたいと思います。
T タクシン政権成立以後のタイ国
岩本 タクシン政権というのは、これまでのタイ国の政権、たとえばバンハーン政権なんかとは違って、民衆の方に目を向けていると、パースックさんやベーカーさんが見ておられたように私なんか読んでいたわけですけれども、そのタクシン政権が、現実には昨年9月にクーデターが起きて倒されました。このクーデターのときに私は感じたんですが、1991年のクーデターとその後の流血事件(1992年)の時とは何か違うんです。あのときは民主化運動のリーダーであったチャムローンとクーデターの首謀者スチンダーという当事者二人がプーミポン国王に呼ばれて、「コラッ!」(?)といわれて収まったという印象があったんです。
あの場面は日本で何回もテレビで流されたもんだから、私なんか非常にその印象が強かったんです。ところが、今回も国王が出て来ましたけれども、これはタクシン首相が外遊中でタイにいなかったということもあるんでしょうが、日本じゃあまりテレビに国王は映りませんでした。たまに出て来た国王をみても「ああ、王様、年取ったな」という印象で、国王の一声で収まった、というあのときのような迫力は私には感じられませんでした。
ベーカー まず、国王とクーデターについて話したいと思います。たしかに、今回のクーデターは1991年のクーデターと、その翌年の「暗黒の五月」といわれた政治危機とは異なります。今回は、国王がチャムローンとスチンダーを呼び出し、彼らを調停すべくひざまずかせていた場面のような写真はありませんでした。しかし、今回のクーデターの数時間後、王宮で(クーデターの指導者)ソンティ陸軍司令官と他の将軍を迎えている国王の写真は、タイのテレビでは流されていました。そして、その場で国王はクーデターを正式に認める宣言を出しました。実際に今回クーデターを国王が容認したことは、1991年の時よりも明白であり、おそらくこれまでのどのクーデターよりもはっきりしています。今回のクーデターの数カ月前に、枢密院の一部のメンバーがタクシンを非難することでとった強硬な態度を知っている多くのオブザーバーは、このクーデターをまさしく王室派によるものとみています。
タクシンはきわめて複雑な側面を有しているために、タクシン政権をタイの歴史のなかでどのように位置づけるかについては、もう少し説明する必要があります。
岩本 ベーカーさんは、今回のクーデターの方が、むしろ今までのどんなクーデターよりも、非常にはっきりした形で国王の意向が出てるんだとおっしゃいました。やっぱり日本にいてあのクーデターを知った私と、現実にタイでそのクーデターの状況をご覧になった方との間に認識の差があるわけですね。
パースック 今までのタイの政治・経済を支える二つの主要な柱は、モナーキー(王室)と軍部でした。タクシンは今までの政治家とどういう意味で異なるかというと、陸軍をコントロールするために、彼を支持した将軍たちを重要なポストに異動させました。陸軍を変えようとしたわけですから、王室と軍部の関係も変わります。タクシンは間違いなくタイの旧政治家を脅やかしました。こういう話は今まで表に出てきませんでした。これからは出てくると思いますけれども、バンコクとかタイのミドル・クラスへの影響もそのことで大いに変わったわけです。
タイ人の多くは、最近まで、農民が選挙であんなに力があるとは思ってもいませんでした。ここで大きい変化は、今までの王室と軍部の関係を変えようとしたことです。選挙の運動で、タイの政界を変えることはできないと、これまで考えられていましたが、それが出来たんです。しかし、実際にはいろんな派があります。タクシン派もありますし、アンチ・タクシン派もあります。
アンチ・タクシン派は自分たちがもっと重要な権力のあるポストに戻るつもりでクーデターを起こしました。国王や王室派の支持がなかったら、このようなクーデターを引き起こすわけはありません。また都市に住むミドル・クラスの支持もないようだったら、今回のようなクーデターはちょっと考えられません。
野崎 ここで1991年のクーデターとの違いをみておきましょう。あのときはミドル・クラスを中心として、民衆が民主化運動をやりました。そして、運動は弾圧され、翌年の5月に流血事件も起きました。しかし、その後、軍部は政治に関わらないと約束しました。
実は王室派の政治エリートと軍部が手を組んで、権力を復活させたのが今回のクーデターであると思われます。1932年の立憲革命があったにもかかわらず、今までは、いぜんとして国王と王室派と軍部との連合が、根底のところでまだ権力を保持していたといえるでしょう。ダンカン・マッカーゴはこうした政治的ネットワークを“ネットワーク・モナーキー”と呼んでいます。
岩本 それにしても今回のクーデター、タクシンが外国に行っていたから起きたんでしょうか、それともいても起きたんでしょうか。
ベーカー クーデターの計画は去年の二月からありましたが、タイミングの問題ですね。野崎さんがおっしゃるように、王室と親密な関係がある人物がクーデターを起こしたことだけはわかってますけれども。
野崎 今度のクーデターは王室に近い人たち、なかでもタクシンとその政治スタイルに我慢できない軍部の人たちによって起こされたんですが、これは外から見ている日本人などには理解しがたいことです。1991年のクーデターのなかで生じた民主化運動は何だったのかということになってしまいます。とにかく難しいですね。
1932年の立憲革命についてもう少し説明しますと、あれは無血革命だったんです。結局、その当時のラーマ7世・プラチャーティポック国王はそれを認めて、絶対王政から立憲君主制に移行したんです。その具体的な過程についてはこの『タイ国』のなかで大変詳しく述べられています。
ベーカー 実際に1932年には立憲革命が行われたけれども、それで王室がなくなったわけではないんです。現在のような形で王室は続いてきたわけですね。でも1932年以降、特に1950年からは、基本的に王室はどういう存在かというと、タイ国だけではなくタイ民族の指導者、そういう存在だったんです。そして、首相というのは実は国の政治指導者という存在にすぎなかったんですね。
野崎 というより、むしろ国のマネージャーですね。
ベーカー ええ、ただのマネージャーだったんです。しかし国の指導者というのは、そのような存在ではありませんでした。指導者は国王だけでした。これまではそうです。
それでは、タクシンはどう違うかというと、彼はだんだんそのような国王の地位に近づいていったといえばいいすぎになるけれども、ちょっと国王のような存在を狙ったというか、そういう分析もあります。要するに選挙を通じて民衆の支持とか民族の愛とかを糾合し、すべての国民から支持される権力が欲しかったんだという解説もあります。
野崎 要するに立憲君主制に移行した後も、潜在的に国王は権力を保持していたんです。そしてそれを支持する王室派と軍部が存続していました。これらの勢力が温存されていたのですね。つまり議会制民主主義を導入したけれども、それと君主制とが並列的に存在していたというわけです。しかし、タクシンが単に政治を司るだけじゃなくて、大衆に支持されてきたんで、王室派と軍部が危機感を持つようになったことは間違いありません。
岩本 危機を感じて……。 ただ、日本なんかで報道されてるところによると、タクシンは民衆の支持を受けるという形で登場したんだけれども、結局自分の一族の富の蓄積に力を入れたというので、民衆の支持が離れたんだと。そして選挙をやろうとしたら多くの政党がその選挙をボイコットして、タクシン支持の政党だけの議会が出来上がってしまったんで、今度のクーデターはそれに対するクーデターなんだということでしたね。それは上っ面から見てのことなんでしょうかね。
野崎 それはありますよね。クーデター派の人たちは、そういうところを大義名分として利用できました。
岩本 パースックさんやベーカーさんの気持の中には「タクシンが出てきたことによってやっと議会制民主主義がいけるようになった」ということがあったと思うんですけれども……、つまり今度のクーデターに関連して、パースックさんやベーカーさんが、タクシン政権を今どのように評価されるのかが、私には興味深いんです。この『タイ国』のなかでは「さてタクシンはどうやっていくでしょうか」っていう形で12章を結んでますよね。「タクシンは、貧民フォーラムとの合意締結に首相就任の最初の1日を費やした」といい、
「その結果、貧民フォーラムは、チュアン政権中ずっと行っていた首相官邸周辺での座り込み抗議を中止した。タクシンが最終的に約束を果たすことができるかどうか分からないが、彼の選挙戦略によって明らかになったことは、実業界の寡頭支配は、社会の他の領域からの拡大する圧力への譲歩なしには、もはや不可能であるということである。タイの実業家による政治は、農村の貧困者とも世界とも折り合いをつけなければならなくなった」(『タイ国』邦訳592頁)。
と述べて、結んでおられるわけですよ。そうした評価が、クーデターがあったということによって、現在の時点で変える必要があるのかどうかということです。
野崎 タクシン政権の評価という場合、一九九七年の経済危機を考えてみる必要があります。1997年は、1960年代以降タイが経験した初めての最も深刻な経済危機だと思うんです。その間も、好況、不況という景気変動はもちろんありましたけれど、最も深刻な経済危機というのに見舞われたのが1997年です。
岩本 あのときのアジア経済危機はタイから始まったということがいわれてますけれど、その時にパースックさんが日本の新聞のインタビューで、日本だってこれまでの歴史のなかで経済危機に何回も見舞われている、そういうことが今回タイに起こったんで、かならずしも心配はいらないということを話されてるのを読んだことがあり、なるほどと思ったんですけれど。
野崎 過去のタイ経済の歩みをみてますと、相当順調に来ていたので、1997年はやっぱり大きな衝撃だったことは確かです。
パースック&ベーカー そのあとのタクシン政権の時期というのは並外れており、おそらくタイの現代政治史の主要な分岐点であったと思われます。1997年の通貨・金融危機がなかったら、おそらくタクシン政権は誕生していなかったでしょう。この経済危機が大きな経済的困窮をもたらしたために、これまでにない変革の要求が出てきたのです。経済危機によって、誤った経済運営をしてきた古い政治エリートは信用をなくし、旧政治家はほとんど失墜しました。そしてついにはそれが新しい1997年憲法制定の背景となりました。これら4つの出来事、つまり「変革をもとめる社会的要求、旧体制への不信、旧政治家の失墜、新しい憲法」が、何か新しい、これまでにない状況をつくりだしました。
経済危機によってもたらされた不満を背景にして、タクシンは権力の座に登りつめました。
第1に、危機によって破産した実業家に対して、グローバリゼーションから彼らを守り、再び豊かにしてやると訴えかけました。タクシンは経済危機を乗り切った大物実業家の多くを自分の政党に集め、自分の政権に入閣させました。
第2に、経済危機の矢面に立たされた地方の農民たちに対して、安価な医療サービスや債務救済や開発資金を提供するという形で訴えかけました。初めタクシン自身はこうしたことに関心を持たなかったのですが、主として彼のアドバイザーがこうしたプログラムを推進しました。彼は登場してから数年の間、実は「民衆」について語ることがほとんどなかったのです。彼の政権のやったことは、おもに富裕層に有利な政策を中断させない程度に、貧困者にわずかの施しをするというものでしたから、実際はビッグビジネスのためのものでした。これを新しい「社会契約」と呼んでいる人もいます。
しかし、主としてビジネス上の不正な取引のためにタクシンが非難を受け始めた時、彼は自分のやってきた農村政策から得られる大衆支持のもつ計り知れない力を認識するようになりました。そして、最近3年間で、彼はますますポピュリストになっていったんです。
このことを理解するために、タイ社会をもう少し見てみる必要があります。主要な輸出品が車とコンピューターであるような50年間の「開発」と、主として日本の資本を通じて行われた工業化があったとしても、タイで直接その恩恵を受けていたのは少数の人たちだけでした。
約40パーセントの国民がいぜんとして農民であり、約20パーセントの人たちは露店商や臨時雇い労働者などの都市インフォーマルセクターで働いています。これらは大きなグループであり、タイ全体の人口の3分の2に当たります。識者はこれまで彼らを政治的に受身的な存在であると考えていました。しかし、冷戦終結後の20年間でそうした状況が変化しました。
軍部は草の根の政治を抑圧するのを止めました。NGOは小さな民を組織し、政治化し始めました。そして、1997年の経済危機によって困窮した農民や都市インフォーマルセクターで働く人々は怒りました。タクシンはまさしくその瞬間に政権の座に登場し、彼らにリーダーシップを与えたのです。最初彼はいくつかの再分配政策を施しましたが、後に自分自身を彼らの指導者として描くようになりました。
タクシンは彼らに自分を御輿として担がせました。彼は次のようにいい始めました、「私はタイの古い政治家とは違います。私は1人でもあなたのために働きます」と。彼はまたいい始めました、「民主主義の機構の多くは、あなたたちのために有効に働くにあたって邪魔になるので、それを廃止しましょう」と。要するに、彼は権威主義的ポピュリストになったわけです。
このようにタクシンは二つの意味できわめて新しい政治家でした。
第1に、彼は政治の頂点まで登り、ビッグビジネスのための政府をつくった最初の大物実業家でした。
第2に、彼は、自分自身を「大衆」ないし「民衆」の指導者として描いた最初の政治指導者でした。
つまるところ、これら二つのことは、旧エリートの多くにとって度が過ぎて、ありがた迷惑であったにちがいありません。彼が将来に遺したものが何であるかを今いうことは早計です。しかし、私たちは、彼が地方の農民の願望を、もはや逆戻りさせるには難しい形でかき立てたと思います。
1980年代と1990年代の長い好景気の後、1997年の通貨危機が起こった時、タイの国民はタイ経済を立て直して欲しいとか、経済的支援が欲しいとかいうことを政治家に期待しました。そういう意味でタイの国民は変わりません。このクーデターはまさにタクシンとその支持者に対する反動です。
野崎 タクシンは政治の指導者であると同時に、民衆の指導者になった最初の政治家です。それに対して旧勢力が反発したんです。特に国王に最も信頼されている枢密院議長のプレーム・ティンスーラーノンなどの旧政治エリートからの反発が、陸軍によるクーデターにつながったんです。
岩本 そうするとやっぱりタクシンは評価はできるということになりますね。
ベーカー 彼のとった政治的スタイルというものは、簡単に忘れられるわけではありませんから、これからまだまだ彼の影響は残るでしょう。
岩本 ちょっと言い方が変だけれども日本の田中角栄が汚職がらみでもって辞めても、なお田中の影響が続いたという、そんな意味にとらえてもいいんでしょうかな。もちろん日本だって55年体制が崩壊した後、いろんな動きがあったけれども、結果的に見ると、小泉純一郎とか安倍晋三みたいな日本人のナショナリズムを、劣情をそそるような形であおる人物が率いる政権が、大手をふって登場してきましたね。
編集部 タイ国民は革命に慣れているのか、クーデターが起こってもかならずしも徹底していないというのはタイの国民性みたいなものに関係があるんでしょうか。
パースック&ベーカー 昨年(2006年)のクーデターは過去の一連のクーデターのなかの一つにすぎません。今回のクーデターはけっしてユニークなものではありません。1947、1957、1976年それぞれのクーデターは、すべて類似していました。これらすべてのケースで、軍は選挙で選ばれた(民選)政府を追い出しましたが、そこには王室または王室派の政治家がかならず関与していました。その際クーデターの首謀者たちは、選挙で選ばれた政治家に不正があったということや、君主制に反することをやったということを根拠にして、自分たちの行動を正当化しました。その上でクーデターの首謀者たちは憲法を破棄しました。そのたびに議会制民主主義を回復するまでには長い時間がかかりました。私たちは、今日までこの一連のクーデターに終止符を打たなければならないと考えていましたが、実際にはそうはならず、今度のクーデターになったのです。
岩本 タイの場合に王室と軍が対立したこともあるんですよね。11932年立憲革命の後、ピブーン政権の時には、当時の国王マヒドーンが幼かった今の国王プーミポンを連れてイギリスに亡命したことがありますね。そしてその後、第二次世界大戦後になって帰ってきて、ピブーン政権が倒れた後に、むしろ議会制民主主義といわれるものが、今のプーミポン国王のもとで出来上がったような印象をわたしなんか受けてるんですけれどね。
野崎 そうですね、1932年の時にも軍閥がありました。立憲君主制になってからも、革命を起こそうという派と、立憲君主制を守ろうという派に分かれたんですね。1992年以降、軍部の力は弱くなったように見えたけど、復活したわけですね。私がさっきからいっているように、1932年の立憲革命の後も旧勢力が自分たちの権力を守りたいということで、軍部がクーデターを起こし、国王がそれを承認することによって権力を誇示するということがありました。
ベーカー 野崎先生のコメントは、やはり王室は民主主義のプロセスを信用していないということですね。だけどタクシン以前の軍を背景にもった政権だったら、議会制民主主義の形をとったとしても、王室と軍とは深い関係がありますし、その陸軍の将軍たちと実際に血のつながりもあり、経済的な関係もありますから、そういう人たちの政権なら国王としても何とかまあ信頼できるっていうことだったんでしょうね。でもほんとに民主主義の政権だったらどうでしょうか。民主主義はやはりだんだん国王の地位を脅かすことになりますから。
パースック タクシンはあまりにも欲しいものがあったから、権力とかお金による彼のやり方は露骨でした。タクシンはお金で人も権力も買いました。タイの中流社会のなかでそういう印象が非常に強いんです。
野崎 タクシンの腐敗ですね。株の不正な取引とかをやり、国会などで批判されました。ただ民衆の批判によって、タクシンが退陣に追いこまれることがあったかどうかというと、それは非常に難しいと思います。たしかに街中でタクシンに対する批判は高まってきたんですけれども。しかし、そうした状況は軍部にとってはクーデターを起こすいいチャンスでした。1992年には多くの犠牲を出した5月の流血事件がありましたが、今度のクーデターは無血でしたから、民主主義が退歩したわけではないと思われるかも知れません。しかし、私は、軍部の力がもっと強くなり、王室の力がもっと強くなるんじゃないかということを危惧しています。私はどんなクーデターであれ、クーデターは民主主義を後退させてしまうという考えを持っています。
岩本 タイで1932年の立憲革命の指導者、ブリーディーの人民党(カナ・ラーサドン)の伝統を継承している政党というのは、第二次世界大戦後も、親ピブーン派のプラチャーチョン党とタマティパット党という形でみられましたが、これらの政党はずいぶん変質しながら、結局は消えてしまいましたね。
野崎 1970年代にはブンサノーンが事務局長をつとめるソーシャリストパーティというのがあったんですが、それは1976年2月にブンサノーンが暗殺されてもう消滅してしまいました。
岩本 今になると、受け継いでいる政党が何もないわけですね。今度、タクシン政権のもとで選挙をボイコットした政党も、かつてのプリーディー派やピブーン派とはほとんど関係ありません。
パースック タクシンの政党は復活するでしょう。どうしてかというと農村の政治的な支持が実際にありますから、きっと戻ると思います。
編集部 それでは最初のテーマはこれでいちおう終わりにして次のテーマに移りたいと思います。全然違うテーマですけれど。それでは岩本先生、質問をお願いします。
U タイ社会における仏教とアニミズムとの関係について
岩本 私の方から2番目の質問をします。私はタイの農村調査に入りました。といってもそんな威張れるほどの調査がやれたわけではないんですけれども、イサーンで二か所、それからチェンマイ近辺で一か所。それにあとはナコーンパトム近辺で一か所です。
その経験からおうかがいしたいんです。それはタイは仏教国であるといわれており、特に仏教の中でも上座部仏教で、日本のような大乗仏教とは違うわけですが、タイの社会の中にはピー(『タイ国』邦訳98頁)というアニミズム信仰が根強く存在していることに気づかされました。そういうことで私は仏教とピーがどういうふうに関わっているかについて非常に関心がわいてきました。
村に行きますと大変立派な寺院があります。しかし、一軒一軒の農家を訪ねてみると、家のなかには日本で言うような仏壇がまったくないんですよね。村の家でそのことについて訊いているうちに、これもアニミズムだと思うんですけども、先祖の御霊ですね、それを家付娘の女性が祀っているいうことに気がつきました。そのとき、先祖の御霊とピーのような精霊との関係がどんなものなのかを知りたいんです。都市部のことは私も全然わからないんですけれども、タイの社会における仏教とアニミズムとのあり方について是非お教えいただきたいんです。アニミズムの方がタイの社会のファンダメンタルなものであって、仏教は上から乗っかっているという感じがするというのが私の今のところの印象なんですが。
野崎 タイの仏教は、12〜14世紀頃にスリランカから伝わってきましたが、それ以前からアニミズムはあるんです。日本でもそうですけどもね。
パースック&ベーカー これは、非常に面白い質問です。これに答えるには、私たちが『タイ国』で扱っている歴史よりもっと古い時代に遡らなくてはなりません。
おそらく仏教が東南アジアに伝わってきたのは六世紀だったでしょう。しかし、12〜14世紀にスリランカの僧侶がタイにやってきたとき、仏教は急速に普及しました。多くの大衆が仏教に改宗しましたが、それはやや宗教的な復興運動のような様相だったのではないかと思えるほどです。それでも、当時の仏教の普及は都市に限定されていたでしょう。村落への普及はおそらくもっと後のことですが、それがいつかというのは難しいです。
仏教が伝来する以前は、アニミズムが東南アジア全域に普及していました。実は、アニミズムという言葉には宗教として非常に原始的なものという響きがあります。しかし、それは正しくはありません。そこには二つのおもな信仰がありました。
まず第1に、この世の人たちは死後、私たちを保護し続ける精霊に変わります。そのような精霊の重要な例は、村の創始者、都市の創始者、王国の創始者です。また、それには自分たち自身の家系の先祖も含まれていると考えられます。先祖の精霊(祖霊)は、一族を一体化する機能があります。
第2に、自然界のすべてに、よい収穫が得られるように、病気が治るようにという願いを叶えてくれる精霊が宿っているとして、これらの精霊は尊重され、保護される必要があるという信仰です。
ベーカー 12〜14世紀に仏教が興隆したとき、仏教の宣教師とアニミズムの古い信仰との衝突がありました。タイの古い伝説のなかには、こうした衝突を示唆するような話がいくつかあります。しかし、実際には、その衝突は限られたものでした。スリランカの僧侶がタイで布教活動したときに、そうした衝突のなかで古い信仰がどれくらい強力であるかを知ることが出来たのです。
私が思うに、スリランカの僧侶は「ブッダは自然に対して大きな敬意を払っていましたので、その教えは自然の精霊に対する信仰と決して相容れないものではありません」とか、「ブッダは精霊が死後も生き続けると思っていましたから、祖先に敬意を払うことは何ら問題がありません」と言って、共存をはかったようです。それで、初期の伝説に戻ってみると、仏教の信仰とアニミズムの信仰とが一緒にごたまぜにされた話があることに気づきます。
それから、もう一つの側面があります。仏教は、精霊信仰があった北インドで発達しました。興味深いことには、特別な人だけが瞑想またはヨガや極端な禁欲のような行動を通して、隠れた自然の力へ接近出来ると信じていた聖人がいました。その自然の力が空中を飛ぶことや未来を予言することなどの並外れたことを可能としました。ブッダ自身は、これらの方法を実験しました。そして、ブッダは後に極端な禁欲などの行動を非難したけれども、そうした実践は仏教の中で、サブカルチャーとして今でも残っています。それはタントラとして知られています。タントラも後になって東南アジアに伝わってきました。これは、あまり研究されていませんが、東南アジアの仏教の中で、非常に強力なサブカルチャーとなっています。
カンボジアではタントラの寺院があり、それは仏教のなかで異なったセクトになっていますが、タイでは、タントラは仏教の主流に混入され、ほとんど区別出来ません。今日のタイでは多くの人々が、仏教僧に宝くじの当選番号の予測を頼むためにお参りします。また彼らは当選番号を探すために、寺院にある木の皮をはがしたりもします。このような行動はタントラが生き残っていることを示しています。
19世紀の半ばあるいは後半までは、これらの3つのもの、つまりスリランカから伝わった上座部仏教、土着の精霊信仰、タントラのすべてがうまい具合に混淆されてきました。その後、古い仏教教典に注意を払い、これらの教典において正統と認められない行為を取り除くという、タイ仏教を「浄化する」運動が起こりました。
実はこの運動はあまり成功しませんでしたが、「純粋」仏教の意識をつくり、都会に住むエリートたちのなかで支持者を引きつけました。しかし、その仏教はあまり大衆の宗教行為を変えませんでした。実は、「純粋」仏教はやや禁欲的なものです。その仏教は、将来を予測したい、宝くじに当選したい、良い収穫を確実にしたい、病気から身を守りたいと願う人々にとって大した助けにはならないのです。したがってタイの人々は、これらのサービスを受けるために仏教とは別の精神的な手段を探し続けます。実際に近年になって、タイ社会はより複雑になり、「現代生活」でストレスが多くなるにつれて、新しい、あるいは復活した宗教的な実践が急増しています。そこには、仏教の瞑想の「純粋な」形も含まれますが、過去の「偉大な精霊」と意思を通じ合うことの出来る霊媒者たち、そして、中国の大乗仏教の女神「クアンイム」のカルトなんかも含まれます。
野崎 制度としての村落あるいは国家にとっては、仏教の役割は非常に重要だと思われます。国家も国民統合の際には仏教を利用するわけです。村落と国家にとっては仏教というのは強力な紐帯ですね。しかし、個人の日常生活では祖霊とか精霊とかいうものが関わっています。たとえば、病気になった場合に、その病気を治すために悪霊を払うといったことが日常的に行われています。こういう呪術だって共存しているんですね。
岩本 葬式なんかは仏教でやるんでしょう。
野崎 葬式とか通過儀礼ですね。たとえば成人式、結婚式、農耕祭とかです。
岩本 しかし、日本のように家の中に仏壇を持ち込むということはないんで、その点で日本とは全然違うんですね。
野崎 仏教の社会的な役割といえばいえるんですが、ピーは個人だけじゃなくて、村落でも祀られます。たとえばAという村からBという村に村落が移ると、まずB村にピーの祠を立てて我々が移住した新しい村を守ってくださいと、村を挙げての儀式を行います。それによって共同体の紐帯が強まります。そこには仏教は全くかかわりません。祖霊を崇拝するということで、たとえば豚を殺してピーに捧げることが行われます。ただ、葬式とか子供が生まれた時とか、それから成人式、結婚式は仏教で行います。僧侶がいない村では長老が葬式や結婚式を司ることもありますが、そういうときは森林僧を招いて儀式を司ってもらうこともあるんです。
森林僧というのは仏教僧侶なんですけども、村落や都市の寺院ではなく、森の中に居をかまえながら、遊行している僧なんです。
岩本 日本で言えば修験みたいなものじゃないのかな。
パースック 日本では家のなかに仏壇を祀るようですけど、タイでも、僧侶の非常に力のある人を、特に祖霊を慰撫するために呼んで儀式を司ってもらうことはあります。非常に重要な儀式なんです。ただ、それは家の外、入口に祠を作って家を守ってもらうために儀式をやるんです。
野崎 入口だけでなく、屋敷地のなかにもあるんです。それは日本でいうところの氏神ですね。村全体の氏神と各個人の家の氏神があるんです。
岩本 あと家のなかにも、さきにいった家付娘の祀っているものがあります。
野崎 家のなかにはさまざまな神様を祠ってあります。氏神だけではないんです。
岩本 それからピーについて非常に面白いと思ったのは、そのピーがたとえば村の人たちにとって役に立たないピーになってくると、その祠のあるところがゴミ捨て場にされてしまうんですね。とにかく寂れちゃった祠のところにゴミが捨ててあるという…。
ベーカー たしかにそういうことはありますね。日本人が見たらびっくりするでしょう。
岩本 つまり役に立たなくなったピーはそういう扱われ方をされるんですね。日本でも信仰がなくなれば祀られなくなる神様はありますけど、ゴミ捨て場にはしないんじゃないでしょうか。
編集部 日本にはピーに相当する言葉は残ってないんですか?
岩本 これまでピーという言葉、精霊という意味で使ってきましたが、タイ語の基本語彙の多くは一音節語であり、各音節は一定の声調(全部で五声調)を伴いますので、その声調(アクセント)によってまったく違う意味になるんです。私なんか、その発音、実は区別できないんです。
野崎 そうそう、目上の人に呼びかけるとき、お姉さんとかお兄さんとといった意味で、ピーといいますね。
岩本 別に目上でなくても、道を訊くときなんか、ピーと言って呼びかけますね。それだけじゃなくてピーが発音の仕方によって死体になることもあるということですね。
何か本で読んだことがあるんですが、タイに行ってうっかりピーという言葉を使うと、大変な誤解を受けることがあるから気をつけろ、相手を尊敬してお姉さんとかお兄さんとか言ったつもりが、死骸になってしまうことがあるんだということです。
ベーカー たしかにタイ語のピーに亡くなった人という意味はあります。最初に作られた泰英辞典ではピーという言葉に二つの意味が書いてあります。1つはやはり神様、霊ということが書いてあり、2番目は亡くなった人とあります。死骸、死体というよりも、亡くなった人という意味はたしかにあります。日本では靖国神社に祀られている人は神様になっていますが、そういう意味で亡くなった人はタイ語でピーといいます。だからタイ語ではピーは亡くなった人を含めて神様なんです。最初の泰英辞典は、そういうことを理解しないで、2つの意味に分けたんで、そこから死骸とか死体という意味があるとされてしまったんですね。
岩本 死んだら誰でも神様だっていうことなんですね。それなら…。
パースック タイにはピーをめぐってもう1つの考え方もあります。それはもし自分が特別訓練をしたら、ピーはお願いをするだけではなく、実際にピーを支配できる可能性もあるということです。だから自分のためにピーを家来として利用することも可能になるんです。
岩本 日本では精霊とか、御霊という言葉がありますが、その言葉がキリスト教の聖書や讃美歌の翻訳の際にも使われます。そのあたり、西洋での精霊や御霊という考え方についてピーの話のついでにベーカーさんにお話いただけますか。
ベーカー 西洋の国では、キリスト教の影響が非常に強いといえるでしょうね。でもキリスト教の神というのも実に非常に難しいですね。ゴッドとかジーサスとかいうけれども、それはいつも讃嘆の対象としてです。ホーリー・スピリット、ホーリー・ゴーストなんていうこともいわれますが、そのホーリー・ゴーストは具体的にどういう意味かというと、ほとんどキリスト教の信者も説明出来ないでしょうね。神父たちもそういうものを説明するのに非常に困難な悩みを持っていますね。要するにホーリー・スピリットという言葉にしてもその使われる局面において意味を変え、いろんなことになってしまい、だからやっぱり神は何だということになり、どう考えても非常に難しいことになります。
編集部 キリスト教でもかなり難しい問題ですか?
ベーカー はい。三位一体は何だとかということになると…。
岩本 それは無理かも知れませんね。
編集部 ああ、アングリカンは、ほとんどカトリックと一緒ですね。
岩本 アングリカン(英国国教会)というのはヘンリー8世が離婚さえしなければカトリックのままだったんだから。
ベーカー ひとつ非常に面白いことは、スピリッツ・ミーディアム、祖霊あるいは子孫の精霊と意思の疎通が出来る人、つまり霊媒師がこのところ非常に多くなったということです。現代の人たちの間で非常に肯定的に話題になってます。
野崎 そうですね。占いもそうだし、精霊や祖霊と意思疎通出来るっていうことで商売にしてる人もたくさんいます。特に不況の時には増えました。1997年の経済危機の時には、そういう商売が繁盛しました。たとえば、この『タイ国』のなかでも次のような話が紹介されています。
「(亡くなった国家的歌手の)プムプアンは不滅になった。スパンブリー県の彼女の故郷にあるワット・タップクラダーン寺院に、5つの等身大の像が建てられた。多くの人たちがこれらの像をあがめ、幸運を祈願するためにやって来た。ある祈願者は宝籤を当てた。寺院(ワット)の参列者は5つの像を見るために順番を待たねばならなかった。寺の境内にある樹木の皮が、幸運なナンバーを求めて盗み去られた。バンコクの新聞は、プムプアンの霊による宝籤の予想の記事を発行することで新聞の発行部数の増加を競い合った。プムプアンの妹はテープと記念品を販売する店を開いた。宝籤で儲けた人たちのなかで、奥ゆかしい人たちは、その儲けの一部をワットに寄付した。5つの等身大の像のうち、最良のものが、ワットのなかで最も重要な場所を名誉ある寺の元住職の像と共有するように移された」(『タイ国』邦訳619頁)。
こうした現象を「繁栄のカルト」と呼んでいます。
ベーカー 非常に興味深いことは、こういう精霊と意思疎通出来る人というのは非常に近代的な問題も解決出来ることです。たとえばあなたの娘は誰と結婚出来るとか、次の入学試験は合格するかどうかとか、そういう非常に具体的な近代的な問題の解決が出来るんです。
野崎 パースックさんの友人の旦那さんが亡くなった時、霊媒師を呼んで霊を解放したと。友達がそういうことによって幸せに思ったという話がありましたね。
ベーカー はい。霊媒師だったら今の場所にもすぐ面会に来ることが出来ますからね。
バイスウェイ これはよけいな話ですけど、日本の芸能界とかでも、そういう霊媒師や占い師が、非常に影響があることが話題になることがありますね。江原啓之とか、細木数子とかね、テレビなどを通じて非常に影響力がある人物ですね。だから日本もそういう社会になりましたかなあという印象です。ああいう人はすごい影響力を発揮することがありますからね。
野崎 そうしたことは結構、あるんですが、今、タイでもそういう霊媒師に頼りたくなるような状況、人々が抱えているストレスとか社会不安が多いからでしょうね。
岩本 だからポストモダンなんていわれるんですね。
野崎 そういう時代状況があるんです。
バイスウェイ 細木数子が朝青龍を支援するとか、そういうことは特に意味はないんですけど、面白いことは、現在の日本社会と現在のタイ社会には、そういう共通点があるんですね。
ベーカー タイでは実はタクシンも霊媒師に頼っていました。タクシンがタイを離れる前、すなわちクーデターの直前に、彼の実家のあるチェンマイの霊媒師と相談したり、あとミャンマーの元首都ヤンゴンに行って向こうの霊媒師と相談しました。何を相談したかは分かりませんが。また今のミャンマーの軍事政権が首都を移すときに、霊媒師の指導に従ってそうしたわけです。とにかく、そういう影響力が霊媒師にあるんです。非常に信じがたいけれども、そういうアニミズムの影響が現代でもみられます。
岩本 私みたいな19世紀的合理主義者には全然理解できないことですがね。
野崎 受け入れられないでしょうね。
編集部 タイでもテレビに霊媒師は出てくるんですか。
ベーカー 霊媒師はテレビには出てきません。
岩本 タイでは仏教の坊さんだけですね、テレビに出てくるのは…。
ベーカー マスメディアに出ないといっても、ラジオでは霊媒師の身の上相談のような番組はあります。うちの娘が悪い奴にだまされて、どうすればよいかといったような…。だから影響力がないわけではありませんけど、仏教の存在はどう考えても非常に大きいですね。
岩本 私はタイに行くのはだいたい12月が多いんです。そうするとデパートの壁やなんかに「仏暦二千何百何十何年のクリスマスおめでとう」という垂れ幕が下がってます。クリスマスを仏暦でもって祝う国というのは非常に面白いですね。(笑)
パースック あとやはり雑誌とか新聞にも精霊の話は非常によくのります。ピーが出てくるような広告もあります。
岩本 あとタイのなかでのムスリム、イスラム教ですよね。特に南部のマレーシアに近いあたり、この頃のタイのいろいろな国情不安のなかにそうしたムスリムの動きもあるんでしょう。私がチェンマイとかバンコクで市場にいったとき、牛肉を扱ってる人たちはみんなムスリムっていう話を聞いたことがあるんだけど、その辺はどうなんでしょう。
パースック 市場の牛肉を扱う人がみんなイスラム教徒かどうか分かりませんが、イスラム教の人のための特別な肉屋さんはどこでもあるはずです。日本でもそういう肉屋さんがありますから。あと、やはりユダヤ人も、たとえば魚を買う時はちゃんとお祈りしたものじゃないと駄目ですね。
岩本 タイのなかでのムスリムというのは、時々出てくるんだけど、あれは南部ですかね。
野崎 ええ、たしかに南部に多くいます。
岩本 タイでイスラムの寺院は見たことないな。その地区に行ってないからかもしれないけど。
野崎 バンコクにもあります。少ないですけど。
パースック 北部でもあるはずですけども、非常に周りの人と同じような生活、同じような服装、同じような道具を使うから、その人がイスラム教徒であると簡単に区別することはできません。
編集部 この話については、このあたりでよろしいでしょうか。そうしましたら、第3番目として岩本先生のご質問「タイの女性」問題についてお願いいたします。
V タイ国における女性の地位について
岩本 3番目には、タイ社会における女性の地位の問題なんですけれども。日本なんかで売られている旅行のガイドブックを見ると、タイは仏教国だから女性の地位は低いと書いてあります。ところがタイの農村なんかに調査に入った感じでは、みんな女系相続ですよね、家の相続が。通常は娘たちを上から順に婿をとって独立させて、親が年取った時に両親の面倒を見るという形で末の娘に相続させますね。いちばん下の子どもに相続させるという末子相続は、あちこちで見られるけれども、とりわけタイの場合には末娘、いちばん下の娘の相続という形になっています。ただ、私はこれは制度ではないと思うんですね。むしろそうすることが合理的だから、そういう形がとられたと思うんですが、その結果、基本的には男は入り婿で、したがってタイには日本でいう嫁・姑の関係というものがどうもないようなんです。こうしたことでタイ社会は女系で、しかも女権社会であるように農村では感じました。この点についてベーカーさんには観察者としてどう見ているのかを伺いたいんです。また、パースックさんにはインテリ女性としてタイにおける女性の地位についてどう考えておられるかを、特にタイの農村の女性と都市社会の女性との比較を含めてお話をいただきたいんです。
ベーカー 最近、私は昔のタイ社会における「家族」の意味に興味を持つようになりました。1つの旧タイ系諸族の社会(タイ国でなく、民族的に繋がっているタイ族)で、次のような法律がありました。「夫が参戦して、死んだならば、彼の妻には夫の弟と結婚する権利がある」ということです。注目するべきは『権利』という言葉の内容です。弟は嫂のその権利を拒絶することが出来ませんでした。この法律は本当に考えさせられます。
私は、過去のタイ社会の「家族」の意味は、現代の概念と非常に異なっていると思います。現代の概念の大部分は、西洋の考えに基づいています。そして、まだ今のタイでは「家族」を理解するための、十分な概念と用語がほとんどないと思います。おそらくこの点を考える最良の始まりは、男性と女性が非常に異なる役割と生命パターンを持っているということを理解することです。かつては男性は非常に不安定でした。彼らは戦争や商い、さらには冒険をするために家を出ました。一方で、女性はより安定していました。世代間の連続性を確実にするために、彼女らは財産と出産に気を配りました。これらの役割の各々は、権利と責任をワン・セットにして伝えてきました。先ほど私が述べた法律は、今の話を支持しています。つまり女性には、次世代まで家族を残す義務を果たすため、女性が弟を要求する権利があったわけです。
特にタイ経済における女性の非常に突出した役割において、私たちは今日でも、この古いパターンの遺産をまだ見ることが出来ます。王室を除けば、女性が男性に依存していたという考えは全くありませんでした。女性は財産に気を配り、子供たちを養わなければなりませんでした。そのため今日でも、働く女性の割合は、男性よりわずかに少ないだけです。中央銀行や商業銀行では、現在女性が総裁や頭取になっているケースがみられます。これは世界において類がないでしょう。
しかし、たくさんの変化もありました。多くの中国系の移民者たちは異なった男性と女性の関係を持ち込みました。そして、拡大しつつある西洋文化の優位性も変化をもたらしました。ただ、大きな変化が経済と政治にもたらされ、その結果、女性がより弱い地位におかれる傾向がありました。ここで2つの例に言及させてください。
政治文化は、極めて男性指向的です。なぜなら、政治文化は王室および軍から発達したからです。双方とも極めて男性指向的でした。官僚は、最初男性に限られていました。今でも、上級職は男性にいまだ偏向しています。そして官僚文化は非常に男性的です。すべてのレベルにおいて、選挙で選ばれた政治家の大部分は男性です。たとえば、女性の国会議員はわずか10パーセントです。政治における男性優位は全社会に影響を及ぼしました。最も単純なレベルで、それは男性偏向の多くの法律を生み出しました。
第2の問題は現代経済から出てきました。現代の都市経済の文化は西洋からもたらされました。そこでは妻は夫のために一種のサービスを提供する一員になってきました。妻は働かないで、夫が常に働くことが出来るように他のすべてのことをしました。このシステムは安定的な「家族」を持つことに依存しています。
前に言いましたように、私は、「家族」が伝統的なタイ社会のなかで、現在と同じことを意味したとは考えていません。この役割に対して文化的な支持があります。現代のタイ女性にとって、これは大きな問題をもたらしました。2つのことに言及させてください。まず、1つは彼女たちは現在、働きに出ることによって、家族を支えるという「タイ的な」責任を担うことが期待されています。そのうえ、家族の世話をするという「西洋的な」責任を担うことも期待されています。もちろん、一部の現代タイの男性は現在、自分たちの役割を調整することによって女性を手伝いますが、多くはそうしません。そのため女性に対して非常な負担をかけすぎています。もう1つは、男性はまだ非常に不安定です。彼らはもはや戦争に行きませんけれども、仕事のために移住し、これには日本への移住も含まれますが、性的関係ではしばしば非常に気紛れです。この過程で完全にあるいは部分的に多くの女性は捨てられます。
パースック 農村女性には多くの権利だけでなく、多くの義務もありました。たとえばタイの北部では、祖先の霊が崇拝され、より若い世代に受け継がれていくのは、女系を通してです。通常親の家を受け継ぐ末娘は、親が死ぬまで両親の世話をしなければなりません。娘たちは、両親と家族に感謝するという徳に忠実であるように教え込まれます。そのためにマッサージ師や売春婦としてバンコクに出稼ぎに行き、両親に家を建ててやったり、弟や妹を学校に通わせるために送金するような貧しい家庭の若い女性は皆から大いに褒められるのです。
昔は、稼ぎ手としての男性は、戦争や王の激怒、森の中を旅する途中での病気、その他を通して亡くなったときに、女性は稼ぎ手の役割を引き継いで、自分たちだけで家族を養っていました。暴力を除けばあらゆる点で、女性は自分自身を男性より劣っているとは考えていません。これは、私たちが英語に翻訳している18世紀のタイの説話「クンチャーン、クンペーン」に大変分かりやすく描写されています。
男性と等しい処遇を要求するといっていいほどに、女性に割り当てられる重要な機能は、彼女たちに多くの権利を与えます。タイ農村を研究しているある人類学者は、彼女が東北タイの僻村で、若い女性として結婚する前に、相手の青年は童貞であることを期待していることが分かったと、話していました。
しかし、ジェンダーに関する政治は、どこでもありますが、それは異なる社会で異なる働きをします。タイでは、国王の権力と結びついた古い軍の文化―男性の暴力を称える文化―がいぜん、女性の身分を低くする根源であり、女性たちを家財、つまり、王の地位・将軍・金持を賞賛するための“物”とみなしています。それから、タイには、インドから伝わった女性を汚れある存在と結びつけたヒンズー文化や、多層のなかで最上層へと積み上げていくように、中国や西洋から伝わった様々な形態の家長制もあります。女性の低い地位は、旧い法律で制度化されていき、現代の法律で補強され、西洋の実践にならって形成されたものです。
都市の富裕層や権力者によってつくられた形態は、他の社会に浸透しています。どこでも男性は、女性をコントロールする理由をみつけます。男性が出家する際、得度式を行う場所に女性は入ることを許されません。私の推測では当初こうする理由はあったと考えます。つまり、得度式の間に得度を受ける男性は女性の存在によって気が散るかも知れません。村によっては、得度式を外で行うことで、この実践が緩められているかも知れません。しかし、別の村では、男性は、女性が得度式を行う場所に入るのを禁止する規則を作りました。これは、私には男性の女性に対する恐れの結果であるように思えます。
私の考えですが、ブッダは、女性が僧侶になって昔の男性がしたこと、つまり自分だけで遊行するのは困難であり、不便であることが分かり、女性が僧侶として得度するのを奨励しませんでした。しかしブッダは、女性が僧侶になることを禁止はしませんでした。しかし、タイでは女性が僧侶として得度することは許されませんでした。僧侶であることは、男性に大きな功徳を与えるとみなされます。人々は、それが男性と両親が死後、天国に行く道を開くと信じ込んでいました。これは女性を差別するとみなされました。しかし、これは1つの解釈であり、それを男性が作りました。私がいったように、ジェンダーの政治はいたるところにあります。そして、仏教界でもまた男性は、女性をコントロールするために、女性の地位を自分自身より低くするような慣行をつくっています。
タイでは、制度的に女性が低い地位にあることや男性が女性をその地位に留まらせる試みを行っているにもかかわらず、その他の点で、様々な形の慣行が見られます。ベーカーが前にも述べたように、タイでは女性の高い労働参加率、銀行や保険会社での重役や他の重要な職での女性が優勢であることなどが指摘出来ます。多くの華人系タイ人のビジネスファミリーは彼らの息子があまりに怠慢であるとか、あまりに無責任であると分かると、彼らのより有能で信頼できる娘をビジネス帝国のトップマネジメントとして養育します。普通の家族は、高い教育を受けている彼らの娘をほとんど差別しません。私には、しばしば、高等教育を受けている彼らの娘を差別するのは古い上流家族であるということが分かりました。娘の才能に関係なく、彼らはしばしば娘が有名な花嫁学校に行くことを奨励します。娘に社交性を身に着けさせ、金持か権力のある男性の家庭を優雅にすることを望みます。しばしば、普通の家族もまた、早く家族のために稼ぐように特定の職業の見習いができるように彼らの息子を外に出して、娘には大学教育を受けるのを奨励します。実質的に、良い教育は彼らの娘の価値を高め、娘がふさわしい相手を見つけ、独立するのを可能にしてくれます。そしてこれは、デモンストレーション効果をもたらすかも知れません。慣行は、私が以前にいったこと、つまり女性を評価するという古い習慣も反映しているのかも知れません。それで、現在高い教育を受けている女性に対して、ますます差別が少なくなっていることがわかります。タイの女性の地位が劇的に、制度的にも変わったのは教育を通してです。タイの女性弁護士は、女性をより重んじ、男性と同じ権利を女性に与えるような法律を作るのに大変活躍しています。
ベーカー 権利の問題もあります。女性の場合は、もし自分の旦那さんが違う女性と不倫した場合には、離婚する権利はありません。でも政府のなかで不倫したのがたとえば○○省の部長とか課長だったら首になる場合はあります。
岩本 私はタイの仏教が女性の出家を認めないことを非常にシニカルに見ているんです。女性の強いタイ社会で男性が一生のうち、ある時期、お寺に入って修行するというのは、そのような強い女性から逃れるためのアジールという性格を持ってるんじゃないのかということです。
野崎 お坊さんになりたい女性はタイじゃなくて台湾などに行って得度していますね…、とにかくタイでは出来ないから。パースックさんがいわれたビジネス帝国の女性会長の例として、タイで2番目に大きい小売業界のモール・グループがありますが、そのモール・グループの会長が挙げられます。彼女は創業者の長女なんですが、モール・グループというタイを代表する企業集団の会長が女性なんですね。普通は息子が継ぐんですけども、息子がうまくやれないで失敗すると、今度は娘を引き立てるというようにファミリーのビジネスも少し変わってきています。
編集部 日本だとあまり考えられないことですね。
野崎 タイ中央銀行の総裁も女性なんです。サイアム商業銀行の会長も女性なんです。でもそういうところは特殊ですね。
岩本 特殊なのかな、私に言わせると、少なくともタイの女性の地位が仏教国だから低いなんていうことは全然ないっていう印象を受けちゃうんですけど。
編集部 そこを是非お話ください。
野崎 たぶんいろんなケースがあるんですが、全体としてどうかということです。それに私は女性の社会的地位と仏教とを必ずしも結びつけていません。
パースック 注目すべきは、たとえば政治のことを考えると、ほとんどの政治家が男性です。だから政界は、たとえば商業とか金融界よりだいぶ遅れています。
岩本 ただ、野崎さんがさっき言われたモール・グループの会長が女性だというのは、あるいは一族の家産維持っていうことがあるかもしれないけど、タイ中央銀行の総裁が女性だっていうことは、どうも家産の運用とか維持とは別ではないでしょうか。
野崎 企業集団(コングロマリット)のケースですが、女性の実力もさることながら、やはりファミリービジネスという性格が実際は強いんです。モール・グループやサイアム商業銀行の場合は民間の企業集団です。
パースック あと証券取引所のトップも今は女性です。アメリカとかヨーロッパでは、女性の進出は、ほとんど政府や政府の機関が商業や企業より早いんですね。ところで、映画を作るときは大スターが出演するわけですけれど、周りのその他大勢の役はまあ途中で死んでもいいわけですが、大スターは最後まで生きていないとダメでしょう。タイでは大スターは女性です。男性は途中で死んでしまってもいいんです。
岩本 だから男性はアジールとしてのお寺に行こうとするんじゃあないんですか。王様だってタイでは生涯のうち一定期間お寺で過ごしますよね。やっぱり飛び出したくなる時あるんじゃないの? 女性が特に実権的な力のある社会では、男性は束の間でも王様を含めて仏門に入りたくなる時がある、むしろ仏門が女性に開いてないことによって、男性がそこにアジールを求めることが出来るんじゃないんですか。
野崎 タイの仏教界には女性の僧侶はいませんが、“メー・チー”という女性の在家信者がいます。彼女たちは「準出家者」と見なされています。
編集部 では、女性の立場の話はこの辺で。
W タイ前近代のサクディナー制と
編集部 バイスウェイ先生には今日の座談会がスムースに行くようにもっぱら通訳としてご活躍を頂きました。お蔭様で大変すばらしい座談会になりましたことに厚くお礼を申し上げます。ところでわが社ではバイスウェイ先生がお書きになられた『日本経済と外国資本』(本目録27頁参照)を出させて頂いているのですが、そのなかでバイスウェイ先生は、特にシャムが近代になって金本位制を導入したことについてお書きですよね。そのへんのことにからめて、バイスウェイ先生は現在、タイについてどのような関心をお持ちになっているのでしょうか。そのあたりをお話ししていただけますか。
バイスウェイ 日・タイの比較ということですが、私は今日ここまで話題にならなかった日本の石高制とか、タイのサクディナー制とかいったそれぞれの前近代における土地制度について関心を持っています。近代において日本とタイは国の独立をなんとか守ることが出来ました。そこにはともに金本位制を導入した、というよりも採用することが出来たということがあると思うんですね。そういうことを知るためには日本とタイの前近代における経済あるいは金融の状況をみる必要がありますが、そのためにも日本とタイの土地制度の研究が不可欠だと思うんです。私は日本については少なくとも豊臣秀吉以来の土地制度、タイについてはアユタヤ王朝の土地制度を考えています。あとはその史料ということになりますが、特にタイについてはパースック先生やベーカー先生にお世話にならなければならないと考えています。
岩本 その際、私は日本にしてもタイにしても、プレモダンを考える時に、フューダリズムという概念をもってやったんじゃ駄目だと思っています。フューダリズムという概念で考えようとすると、結局イギリスやフランスと同じに見えてしまうというか、イギリスやフランスにくらべて遅れているかどうかという議論に終始することになるんです。また、封建制といってもフューダリズムの意味で使っているつもりでも、実は封建制というのは中国古代の周における制度であって、はたしてフューダリズムの訳語としてふさわしいかどうかということも問題になるんです。周代の中国語における封建制という言葉がヨーロッパ中世のフューダリズムと同じという保証はまったくないんです。この『タイ国』を訳す時もサクディナー制を封建制と訳していいんだという立場とそうではないという立場の間で議論が、実は結構あったんです。その際、私は、サクディナー制ならサクディナー制をきちっとやることによって、はじめてタイのプレモダンがわかってくるという認識を持ちました。日本のプレモダンなんかについても、少なくとも徳川封建制というのは、私の先生である中村吉治は、徳川時代はその始まりからもう解体期封建社会だといういい方をしていましたが、晩年近くになってから「おい、岩本、封建制という言葉を使わないで鎌倉社会にしても室町社会にしても徳川社会にしても説明出来なければ、結局日本の前近代はわからんぞ。封建制という言葉を抜きにしてやってみろ」ということを言っておられるわけです。そうした場合、タイのサクディナー制と、日本の石高制というのは違うものかもしれないけれども、しかし、違うか違わないかということを含めてきちんと比較研究をやってみる必要があるんじゃないかと、私は考えているんです。バイスウェイさんのような方が、先入観なしにタイのサクディナー制と日本の石高制の比較研究をやってくだされば、タイと日本のプレモダンの研究にとって非常に有益だと思います。大いに期待したいですね。
ところで日本の石高制というのは、元禄年間(1688―1704)までにとにかく検地を行い、全国総石高2600万石とし、その内、幕府がほぼ4分の1の680万石ぐらい持つんですね。そこには旗本給地300万石が含まれてますが、幕府の次に大きい大名っていうのは金沢藩前田氏の100万石ですから、幕府の土地領主としての大きさは圧倒的なんです。あと鹿児島藩島津氏72万石、仙台藩伊達氏62万石などが大きいところですが、大名というと1万石まで260〜270家ぐらいあるわけです。そして今度は各大名に仕えている家臣は、大きい藩ではそれこそ1万石以上の大名格の石高を持っているものもおりますが、100石とか50石、あるいはそれ以下というものもいるわけです。いずれにせよ、将軍から大名、大名の家臣まで、武士の大きさがすべて石高で表示されているんです。そして今度は村ですが、1つ1つの村がそこは何石の米が取れる村という形でもって設定されていて、村に住む1人1人の農民も一応10石を基準にして、それより大きい農民とか小さい農民ということになるわけです。とにかくすべてが土地からの法定収量である石高でもって表現されていて、それで貢租も取り立てるし、将軍なり大名が家臣に禄高を与える時も土地そのものではなく、土地からの収量を与えているんですね。したがって徳川時代は土地を媒介に支配が行われている社会というよりも、土地からの収量を媒介にして支配が行われている社会であったというべきなんです。
アジアにおける前近代を考えるときに、日本にしろタイにしろ、ヨーロッパでいうところのフューダリズムではなく、タイならサクディナー制で、日本なら石高制できちんと説明出来れば、それぞれの社会の異同が理解できて、お互いに分かり合えるようになるのではないでしょうか? もちろん日本でもタイでも、前近代をヨーロッパでいうフューダリズムで説明出来ると考える研究者もいるわけでして、ここで述べたことは、今後における研究課題としての問題提起です。
ベーカー サクディナー制に関する実際の問題は、私たちがほとんどそれを知らないことです。アユタヤ時代から残っている史料・文書が大変少なく、実はサクディナー制が何であったか、そして、それがどのように機能したかを明確に述べる史料は1つもありません。それで、私たちは推測するしかないのです。
私は、最近、豊臣秀吉について読んでいました。その時代の大名への土地の権利の割り当て、変更、承認に関して秀吉が非常に大きな役割を演じた方法に感銘を受けました。この方法で、秀吉の権力は、しっかりと草の根のレベルまで届いたんだと考えます。
シャムの同じ時代に、同じようなものがあったのでしょうか? 私たちは本当に知らないのです。私たちがいまいえるすべては、史料による証拠がないということです。寺院を護持するために、寺院に土地と人々を割り当てる王のことを示す史料が唯一小さなコレクションとしてあります。しかし、私たちは、こうした慣行がどれくらい広まっていたかについては分かりません。地籍測量を行っている王や領主に関する確かな証拠もないんです。新しい王が現れても、土地税の調査がなされたかどうかも分からないのです。
私の推測はこのようになります。
1 サクディナーは第1に位階制度でした。王から奴隷まで社会の誰に対してでも、階層制のなかでの彼らの地位を定める多くの位階が与えられました。この位階制は、法制とともに他の多くのものにおいて重要な含意がありました。
2 国主のために働く人々のシステムは多分類似していたでしょうが、自立する手段を割り当てられました。これには時々、土地が含まれていました。また、しばしば、収入を特定の領地、特定の村、特定のグループの人々から引き出す一般的な権利も含んでいました。私は、それらの権利が行使された方法が、法律や、他の何かで規定されていたかどうかについて分からないのです。言い換えると、それは個人次第であったように思えます。そして、その個人は、自分の収入を引き出すのを手伝ってくれるように、王や国主や国や法律に依存することが出来なかったのです。この意味で、サクディナー制は西洋のフューダリズムとも日本の封建制とも異なっています。
3 位階制と贈与制度には、密接な関連があったのでしょうか? 私たちは本当に知らないのです。しかし、私は密接な関連があったかどうかを疑っています。
パースック なぜサクディナー制は強固ではなかったのでしょうか。人口密度が低く、またジャングルや森の中では病気の危険があって交通・輸送が不便なために、王の権力が限定されることになります。王の支配が及んでくると、男たちは、別の好ましい土地をどこかに求めて、今、住んでいる土地から逃げ出すことが可能で、王の手の届かない遠く離れた所で生計を立てることが出来ました。そして、王が支配をあまり厳しくすると、税を払うために働くのに十分な人々がいなくなってしまいます。王はせいぜい都市の近くの土地だけしか管理出来なかったのではないでしょうか。離れた地方では、王が戦争や外交を通して支配した場合や、また同盟関係を結んだ隷属的な地方の国主・領主に依存できる場合のみ土地を管理出来たにすぎないんです。
野崎 土地の所有者は国王しかいないのです。だからたとえば非常に少ない土地でも割り当てられた農民がそれを休耕地にしちゃうと、もうその時点で耕作する権利がなくなっちゃうんですね。だから子孫に土地相続が出来ないんです。とにかく農民は土地を所有していないんですから。だから土地所有という形の蓄積が誰にもできないんです。個々人での土地の蓄積は、貴族でさえも出来ないんです。貴族でさえそれらの土地の所有者ではないんです。
岩本 人口の件ですが、日本の近世は3000万人から4000万人ぐらいで推移しています。
ベーカー タイは100万人か200万人だからスケールが全然違いますね。
岩本 だからタイは近代化の時に、フロンティアが一気に広がって行くことが出来たんでしょうね。
野崎 そのことは『タイ国』の第2章でとりあげられてます。
編集部 このあたりで野崎先生が、この『タイ国』のなかで特にどこが読者の方におすすめなさりたいところなのか、一言お願いします。
野崎 著者たちによると、この本でいちばん強調したいことは、「歴史を形成するのは一般民衆である」ということです。
編集部 日本とタイの関係で名前が出てくるのは山田長政ですが、山田長政以外でタイと深くかかわった日本人はいるんでしょうか?
野崎 明治の頃、タイも近代化への道を歩み出しました。その時期にタイに対して日本から専門家派遣や技術協力、教育支援などが行われました。たとえば、タイの近代法典(特に刑法)の整備に多大な貢献をした司法顧問であった政尾藤吉(当時『ジャパン・タイムズ』紙の主筆代理を務めていた)や、現在タイの女子教育の中心的な学校となっているラーチニー女学校(中高等学校)の創設に関わった安井てつ(当時東京女子師範学校教授で、後に東京女子大学学長になった)はよく知られています。またタイの養蚕技術の改良や農業開発に貢献した日本人グループ(当時東京帝国大学農科大学助教授の外山亀太郎はじめ数10人の専門家)もおりました。
編集部 野崎先生がタイに興味を持ったのは何がきっかけですか。
野崎 ボランティア活動です。タイのシルクというと、ジム・トンプソンのシルクがブランド品として有名ですが、タイの農村には、マットミーという草染めの絣織などの伝統的な手織物があります。日本も経験したことですが、タイでも化学繊維と化学染料が普及すると、伝統的手織物が廃れていきます。それを復興させ、改良しようと、日本とタイのNGOが協力して支援活動を行うようになりました。1987年からなんですけども、私はそれに参加して農村に深入りし、だんだんタイに興味を持って、とうとうはまってしまったという感じです。タイでは色々な人と知り合いになり、人が住む土地を実感し、民衆が歴史を作るんだということを肌で知ることが出来ました。ただ、タイには日本と違って民衆や民衆の生活の歴史に関する史料や文書がほとんどないんです。国家や国王、宮廷についての史料がほとんどなんです。この『タイ国』のプロローグに出てくる説話「クンチャーン、クンペーン」では、一般民衆の生活が取り上げられています。そこには、その時代の国家とか国王の支配のなかで一般民衆がどのように生きてきたかが、非常に克明に生き生きと描かれています。パースックさんとベーカーさんは、タイ語で書かれた「クンチャーン、クンペーン」を英語に翻訳する仕事をずっと続けておられます。また、この『タイ国』のエピローグでは、貧農出身のプムプアンがバンコクに出稼ぎに来て、歌手として成功し、歌謡界のヒロインとなる話が書かれています。クンペーンもプムプアンも庶民を代表する人たちでした。著者たちが『タイ国』のなかで最も主張したかった「民衆が歴史をつくる」ということが、ここに端的に表れていると思います。
編集部 プロローグとエピローグのところで、ちゃんとつながるんですね。そろそろ時間が参りました。さて、弊社はパースック先生とベーカー先生のご著書『タイ国』を北原敦先生・野崎明先生の監訳、日タイセミナー訳でお出しする事が出来たのですが、残念ながら、多くの方は「日タイセミナー」をご存じない事と思います。そこで、座談会を閉じる前に、岩本先生に日タイセミナーについて、ご紹介をお願いします。
岩本 日タイセミナーというのは、1992年6月に私が野崎さんと一緒に、当時、大阪千里にある国立民族学博物館に客員教授として来ておられたチュラーロンコーン大学経済学部教授(経済史専攻)のチャティップ・ナートスパー先生を岩手県遠野市にご案内したことがきっかけになっているんです。そのとき仙台から遠野まで野崎さんの運転する車で行ったんですが、季節的に車窓から田植えを終わって間もない水田が見えました。チャティップ先生はその風景を見ながら、私に日本の稲作を中心とした農業のやり方についての説明を求めてきました。そこで私が現代の機械化される以前の稲作のための労働組織や水利組織や草肥をとるための林野利用組織などを共同体という視点から具体的な事例をまじえて話しましたところ、チャティップ先生は大変よろこばれまして、宿に着いてからも、食事をすませてからも夜遅くまで話が盛り上がりました。チャティップ先生もタイの稲作農業のやり方について具体的な事例を挙げながら話して下さいました。そして、チャティップ先生は、このような出会いを今回限りのものにしたくはない、是非、何回も会って話をしたいということで、意気投合したわけです。そして、その年の12月にチャティップ先生がタイのアユタヤ歴史センターで「村落共同体の比較歴史研究」というシンポジウムを開いて下さったのが、そもそも日タイセミナーの始まりなんです。そのとき私が行った日本に関する報告の司会をして下さったのがパースック先生でしたし、私にとって午後9時に開始されたセミナーというのははじめての経験でしたが、深夜、ホテルまでベーカー先生に車で送っていただきました。パースック先生とベーカー先生とはそれ以来のおつきあいです。日タイセミナーは翌年もアユタヤ歴史センターで開かれましたが、そのあと1〜2年の間隔で開かれて、すでに9回を数えております。日本では岩手県の遠野市、山形県の羽黒町、青森県の白神山地、沖縄県の那覇で開きました。実は2006年12月にタイで開かれるということで準備がなされていたんですが、9月にクーデターがあったりしたため中止のやむなきに至りました。なお、日タイセミナーというのは名簿もなければ、会費もありません。ただ、お互いに呼びかけあって集まった人たちで毎回有益な学術交流が行われてきました。このことを私たちは誇りとしております。
編集部 岩本先生ありがとうございました。では、座談会をこれで終わります。パースック先生とベーカー先生がちょうど、日本にご滞在になっていたお蔭で、こんなに面白い座談会が実現出来ました。皆様、今日は本当にありがとうございました。
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